できるだけ癌患者と家族が望む場で過ごせるよう、病院でも在宅でも診療し、そして看取っています。

 癌患者は病院だけでなく、自宅で亡くなる場合もあります。依然として、病院で亡くなる方が多数ではありますが、少しずつ住み慣れた自宅で亡くなる方が増えるとよいなと思っています。地域によって医療資源の充実さに差がある現実はありますが、患者と家族が望みさえすれば、往診医・訪問看護師・薬剤師・ケアマネジャー・介護士などが協力し合って、人生の最期を自宅で迎えることができます。

 多死社会を迎えようとしている今、国は在宅医療を推進し、在宅で最期を迎える患者が増えるよう誘導しています。簡単に言うと、病院のベッドが足りなくなるからです。実は地域によって事情は異なり、人口が減少している地方では病床が空き、在宅医療へ誘導する必要がない地域も出てきており、数十年後の日本はどうなってしまうのか……という話題はまた別の機会に。

 医療者はみな信念を持って患者と関わっています(と信じています)。病院の医療者は、病院でこそ最高の医療を提供できると思って治療しているでしょうし、在宅で関わる医療者は、在宅でこそ人間らしく過ごすための医療を提供できると考えているでしょう。優劣つけるべきではないのですが、いずれかに肩入れする医療者は、もう一方を見下すような発言をしがちではないでしょうか。「これだから病院は…」「これだから在宅は…」と。二刀流でやっている自分からすれば、どっちもどっちなのですが。

 いずれにせよ、以前、尾藤誠司先生が日経メディカルのコラムに『自宅での看取りをあまり啓蒙しないでほしい』と書かれていたように、在宅の看取りを最善とする雰囲気作りは、人を傷付ける可能性があることを忘れてはいけません。

 在宅の看取りにも多くの問題があります。病院と在宅の両方で診療しているからこそ、あえて指摘する問題点。かつての自分自身への自戒の意を込めて。それは、在宅で行われている医療の質について、他者から公正な評価を受けないということです。つまり、良い治療が行われているか、分からないということです。

 病院では複数の医師、看護師が治療に関わります。上下関係が存在する指導体制が確立しています。一方、在宅ではほとんど1人の医師、限られた看護師によって治療されます。複数の医師が勤務するクリニックでも、多くの場合、診療内容は他医師からチェックされません。恐らく、在宅医療では治療の質よりも医師と患者家族の信頼関係によって成り立つ部分が多いと推察されますが、あえて批判的に診療内容をチェックされずして、医師として成長できるのかと危惧してしまいます。

不十分な苦痛緩和を「家で看取れたから」と正当化してないか
 そして、今回のメインテーマ。看取りの質について。特に癌患者の場合について考えてみます。亡くなる間際の癌患者には、苦痛を伴う様々な症状が出現します。疼痛、呼吸困難、せん妄など、患者だけでなく、それを看ている家族にも苦しみを与えます。自分が勤務している緩和ケア病棟では、それらの苦痛の緩和に全力を尽くしています。日々、複数の医療者で話し合って薬剤を調整し、患者家族と関わっています。そんな自分が、かつて在宅で看取ってきた患者を振り返ると、本当に苦痛を緩和できてきたのか疑問に感じてしまいます。

 家族から「最期は苦しそうだったけど、なんとか家で過ごせました。ありがとうございます」と言われたこともあります。在宅で関わる医療者は「最期は苦しかった」という声を打ち消すように、「でも、家で看取れてよかった」と正当化してはいないでしょうか。正当化せず、苦痛を緩和するためにどうすればよかったか振り返られなければならないのです。

 緩和ケア外来で診療していた患者を、在宅医療を行うクリニック・診療所に紹介することが多くあります。結果的に自宅で亡くなって、その報告に家族がいらっしゃいます。穏やかな最期だったと報告してくださる家族が多くいる一方、「本人が入院したくないというから家で看取ったけど、最期は苦しそうでつらかった」と涙される家族も少なからずいらっしゃいました。在宅で関わった医療者にも伝えたかと問うと、悪くて言えなかったと。そう、看取ってもらったから言えないのです。「でも、家で看取れてよかった……」ではいけないのです。

 住み慣れた自宅で人生の最期を過ごせることは、本当に素晴らしいことです。そして、それを支えている在宅で関わる医療者も、本当に頑張っています。自分自身、多くの素敵な医療者に恵まれ、在宅医療をさせてもらっています。でも、治療の質、特に看取りにおける苦痛緩和の質に、妥協は許しません。在宅で看取ったという結果に満足するのではなく、しっかり苦痛を緩和できていたかを振り返り、質を向上するための努力を怠ってはいけません。「自分はしっかり苦痛緩和できている」と思っている医師ほど危険です。